終活。
就職活動ではないですよ。自分の人生の終わりの時が来る時のために、いったい、今、どうするのがいちばんいいのか、ということをそろそろ考えなければならない時期に来ている、ということです。
自分が死んだときに、自分がどうして欲しいか、ってことも大事だけれど、我を通せば、残された家族が、親戚連中から非難を浴びることも防がなければならない。
ここが、わたしにとっての終活の、いちばんやっかいで、どうしたらいいか、わからないってところなのです。
実家は、基本的には、真宗大谷派で通っていますでの、わたしの父親が亡くなったときも、真宗大谷派の僧侶が来て、お経をあげて、わたしも、そのお経を読み、数珠を持ち、手を合わせて、お別れをしました。
だったら、お前も、なんも考えずに、まあ、別に真宗大谷派でなくてもいいから、何か、適当な仏教のお坊さんっていうか、お寺さんに頼んで、一般的な、お通夜と葬儀をすれば、誰も文句も言わないし、残された家族も何にも言われないだろう、って考えてられるでしょうし、確かに、そうすれば、なんら問題なく、終活ができるのかもしれません。
ただ、わたしはそれでは納得できないんです。なぜなら、無宗教だからです。もし、自分が死んだときに、どっかの坊さんに、なんかわからんお経をあげられるのは、苦痛以外のなにものでもありませんし、そんなものに、お金を使う気もさらさらありません。
ただ、そのことを家族が納得してもらえるかどうかというと、いささか問題が残ります。
自分は死んじゃったから、誰にも何にも言われないけど、残された家族は、親戚連中から何を言われるかわかりません。
ただ、だからといって、まったく意味のない仏教的儀式、あるいは別の宗教においても同じですが、なんらかの宗教的儀式をすることは、わたしの本意ではありません。
じゃあ、どうすればいいのか。それは、自分が元気な間に、親兄弟や親戚にもわかるように、遺書を残す、あるいは、意思表示をしておく、ということが、まずは必要であると考えます。
田舎は、なかなかそういうわけにはいかないんだよ。お前はわかってないなあ、って言われそうですが、自分の死の儀式を、適当な宗教の方式に基づいてやられることは、耐えられないことです。
まだ、少しは時間があります。
終活、というよりは、お別れの時が来たときの、みなさんとの別れをどういう形でするのか、具体的にこういう方法で、誰に知らせて、このようにする、ということ。
そして、残された家族が、親戚連中から、非難を浴びることがないようにすること。
その方法として、いちばん何がいい方法なのか。それを、ここ2~3年以内には確立していきたいと考えています。